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落合恵子さんの介護体験
作家である落合恵子さんの『泣き方をわすれていた』は、自宅で母親の介護をしていた恵子さんが介護体験をもとにして書いた長編小説らしい
恵子さんはパーキンソン病やアルツハイマー型認知症であった母親を7年間自宅で介護し15年前に母親は他界。介護中は母親に「お母さん」と呼ばれどうすればいいのかわからなくなったという体験や昼夜逆転により睡眠不足になっていた事。口から食事の摂取が出来ず、胃瘻(胃に穴を開け管を通して栄養を取る方法)造設して栄養を摂取していたが”本当にこれでいいのか””彼女はこの状態を望んでいないであろう”という葛藤と闘っていた事の紹介があった。
それでも自宅での介護を続けたのは
「明日の命の保証がない母親と向かい合っていく時間の濃厚さ」を大事にしていたことや、親を誰かにお願いする後ろめたさを感じていたそうで、家族とその親子にとってベターな方法を見つけるしかない。と話されていた
介護体験を通して感じたことは
- これから迎える加齢による変化
- 人は必ず公平に誰もがこの道を通っていく
という2つの事に対して予習をした時間のようだった。と話されていた
認知症の看護師として思う事
恵子さんは毎年リビングウィルを書いているらしい。リビングウィルとは人生の最終段階(終末期)を迎えた時の医療選択について事前に意思表示しておく文書であるが、これは私のような40代でも書いておいた方がいいと思う。突然の事故や脳卒中が原因の認知症になる可能性もゼロではないからだ。
高齢になればなるほど重要性が増していく事は言うまでもないが、何故いいかというと本人・家族・医療従事者にとって3法良しに繋がるから。
- 本人・・・苦痛が減り満足できる医療が受けられる
- 家族・・・悩む時間が減り選択した後の罪悪感や後ろめたさが減少
- 医療従事者・・・患者の望む医療をスピーディーに提供できる
と言っている自分も書いてないので今月中に書こうと思う。
さらに、私個人の考えを言わせてもらうと、胃瘻増設もほとんどの高齢者に必要ないのではないかと考えている。身体機能は維持できていたとしても、認知機能が維持できない患者を数多く見てきたからだ。
人の価値観なのでどちらが間違っている。という事ではなく
「生きているだけでなく、活きていたい」という私の価値観の話。
また、落合恵子さんの介護体験で感じたこと、
“これから迎える加齢での変化や、人は必ず誰もが公平にこの道を通っていく予習”
という事についてだが、加齢による筋力の低下や年相応の認知機能の低下、判断力の低下は必ず起起こるものであると考えている。
しかし公平に通る道の状態は変えられるのではないかと思う
例えば
今はアスファルトの道で通りやすい道であるのに対して、一昔前は整備されておらず通りにくい道であったはず。その前は獣道であったかもしれない。
同じように、
認知症を患った方を含めた介護という道は、以前より大分改善されていると思うが、まだまだ通りにくい道ではないか。
その通りにくい道を通りやすい道に変えていくには、行政や病院など関係する機関が集まり、知恵を出し合って作り上げていく必要があると思っている
まとめ
今回は落合恵子さんの介護体験をテレビで拝見し、介護=つらい体験、きつい体験というイメージを〝払しょくできる仕掛け”を作っていく事が必要ではないかと感じた
以前テレビで観たアルツハイマー型認知症の人達が集まる、アルツハイマー村の方達や
働く認知症ネットワーク町田というボランティア団体で、竹林整備など行っている認知症の方達は生き生き暮らしていた。
いろんなアイデアを出して実行していけば、介護=つらい体験となる方達は減っていくのではないだろうか
高度成長期を支えて来た方達が高齢になっている今、その恩恵を受けている私たちが行うべきことは、高齢者が自分らしく生きれる場所を作る事だと思う
最後まで読んでいただきありがとうございました。