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住職の説教から
親戚が亡くなった時に私は中学生だった
自分に近い親戚だったのでその時の事は鮮明に覚えている
葬式から49日に至るまでお経を読んで頂いた住職から当時このような説教を受けた
道に咲いている花をみて美しいと感じる
それは素晴らしい事だ。しかし
実は
道に咲いている花をみて”美しい”と思える
その心が美しいのです
その当時は
”は?”
という言葉が一番しっくりくる表現だったと思える
大人になってから感じたこと
看護師になってから、認知症を発症した祖母の介護を行った
結局祖母はこの世を去ることになったのだが、葬式の時にその時の記憶がフラッシュバックしてきたので、ちょっと深く考えてみた
私は実を言うと
花が綺麗だと思えることが少ない。
というより、
あまり関心がないといった方が近いかもしれない
どちらかというと景色をみてから美しいと感じることの方が多い
(余談)
でも、タンポポは嫌い
うちの芝に勝手に飛んできて花を咲かせるし、すっごく根を張って
とろうと思ってもとれないから
だから
咲いている花を見て綺麗だと感じ、幸せな気分になる人を見ると羨ましくも思える
景色を見て美しいと思うのも同じだろ。
と言われるかもしれないが
同じ花をみて関心がないと思うより、綺麗だと思う方が得している。
と考えているから
家族を介護している介護者は何故美しい?
ここで私の本業である認知症に話を絡めてみる
認知症者を家で介護している方、それぞれ事情はあると思う
- 嫁・養子に来て介護はしたくなかったが、仕方なくやっている
- 妻・夫の介護が必要となり、お世話になったからやっている
- 両親に育ててもらったのでやっている
考えてほしい所は
自分がやらないといけない。という責任感を持ってやっている点
- 介護のやり方は間違っているかもしれない
- 要領が悪い介護をしているかもしれない
- 介護されている本人はうるさい。と思ったり苦しいと感じているかもしれない
- 認知症者にイライラしながら介護をやっているかもしれない
でも責任感を感じてやっている。
その心が美しいとも言えるのではないでしょうか
うーん
ちょっと宗教染みて来ましたかね・・・
結論
結局何が言いたいかというと、ものは考えようだという事
自分のストレスが溜まらないように
認知症者をデイケアやショートステイに預ける
または
施設入所に踏み切り、友達とランチしていたとしても罪悪感を覚える必要は全くないという事です。
自分は介護をしようと考えていた。
しかし、あまりにも負担が多くてできなかったので専門職に任せた
介護をしないといけない。という思いはあったのだからその心で十分
自分を責めたりする必要はない
という事が言いたかったのです
ここまで読んでいただきありがとうございました